創作怪談 「彼女の笑顔」
念願の一人暮らしをすることとなった。
都市から近すぎず、遠すぎずの距離にある静かな住宅街にあるマンションの一室。
しかし、ここに念願の自分だけのユートピアを築こうと思っていた僕の出鼻はくじかれることとなる。
それは引っ越しを終えた初日の夜に起こった。
ソファに寝そべりテレビの電源をオンにしたとき、ぞわりとした感覚を覚え、背後で何かの気配を感じた。
おそるおそるふり返る。僕は息をのんだ。
部屋の隅に女が膝を抱えて座っているのだ。
だれだ?と問いかけたが女は僕には一瞥もくれず、ただジッとテレビ画面を見つめている。
何か答えろ。警察を呼ぶぞ。と言うが何の反応も無い。
もう実力行使だ。僕はソファから起き上がると女の所に歩いていき、膝の前で組まれた手を取ろうとした。
が、僕の手は空をつかんだ。
取ろうとした女の手の中に僕の右手が沈んでしまったのだ。
小さく悲鳴を上げて、思わず後ずさった。
その時に僕は理解した。この女は生きている人間ではないと。
何てことだ。念願の一人暮らしという夢をやっと叶えられたというのに。
設備に何かしらの欠陥があるのならまだしも、よりによって女の幽霊が出る物件だったなんて。
僕は深いため息をついて肩を落とした。
しかし、なんとも幸の薄そうな女である。
目鼻立ちはハッキリとしていて美形なのだが、ハの字に下がった眉とへの字に落ち込んだ口角。
恐怖は鳴りを潜め初め、それよりもどんよりとした湿っぽい感情がふつふつと湧いてくる。
引っ越しの疲れも相まって、ずんと体が重くなる。
背中を向けるともしかすると襲い掛かってくるかもしれない。
僕は女に体を向けたまま後退し、後ろ手にテーブルの上のリモコンを手に取り電源のスイッチを押した。
テレビ画面が消え、部屋がしんと静まったのと同時に女の輪郭は滲むように溶け雲散した。
どうやらテレビの電源をオンにすると現れ、オフにすると消えてしまうらしい。
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なんだかんだでこの部屋で生活して二週間が経過しようとしている。
あの女の問題は解決したわけではない。しかしテレビを点けさえしなければ女は現れない。
それに、現れたかといってこちらに危害を加えてくるわけではない。
気づけば恐怖心は微塵も無くなってしまっていた。
人間の慣れの力とは恐ろしいものだなとつくづく思う。
リモコンを手に取り、テレビの電源をオンにする。
ここ数日は端末で動画を視聴していたのだが、今日はどうしてもリアルタイムで見たいバラエティ番組があるのだ。
画面の中にはきらびやかなステージが映っており、そのセンターにマイクスタンド置かれている。
舞台の両脇から二人のスーツ姿の男が現れマイクの前で合流し流暢な挨拶をすると漫才が始まった。
僕が最近ハマっている芸人。漫才のネタ自体も面白いのだが、過剰ともいえるツッコミが個人的にツボなのだ。
ボケを担当している男が調子はずれなことを言い、ツッコミが激しいツッコミを入れる。
僕は声を上げて笑った。
フフフ
僕の笑い声に交じって、かすかに女の笑い声が聞こえた。驚いて振り返ると、部屋の隅にあの女がいつも通りに膝を抱えて座っている。
眉を開き、口角を上げて笑っていた。
この世の不幸を全て体験したかのような陰気臭い表情が消えていた。
なんだ?漫才が好きなのか?
ツッコミがまた激しいツッコミを入れる。
キャキャキャ
先ほどよりも大きな声を上げて女が笑った。
子供のようなあどけない笑顔で。
かわいいな。
僕は女がこの世のものだということをつい忘れ、そんな感情を抱いてしまった。
その笑顔を、もっと見たいと思った。
レンタルショップで様々なお笑いのDVDを借りてきて検証した結果、彼女は漫才よりも体を張ったものが好きだということが分かった。
古典的な熱湯風呂やゴムパッチンや落とし穴などなど。
ケラケラと笑う彼女のことを、僕はどんどん好きになっていった。
気づけば僕はアルバイト先の同僚や友人との飲み会などを断り、真っ先に帰路につくようになっていた。
その日もレンタルしてきたDVDと彼女の笑顔を堪能し終えると、テレビの電源を消そうとスイッチを押す。
しかし、ボタンを押し間違えてしまったようで、別のチャンネルに切り替わってしまった。
数秒の暗転の後、既視感のある映像が映し出された。
薄い照明の焚かれた部屋で、女がベッドに横になって眠っている。
僕は思い出した。それが非常にグロテスクなスプラッタ映画であることを。
この後寝室の入り口のドアから殺人鬼が部屋に飛び込んできて、この女は無残に殺されてしまう。
カットが切り替わり、寝室の扉が画面に映し出される。
ドアノブが回り、扉を突き飛ばすように開け放つと殺人鬼がナイフを片手に部屋に侵入してくる。
女が飛び起き悲鳴をあげるやいなや殺人鬼は女を抑え込み、無情にナイフを突き立てる。
あまりの凄惨さにチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばした瞬間。
今までに聞いたことのない笑い声がすぐ傍で聞こえた。
見ると、彼女がいつのまにか僕の隣に移動してきていて、体を震わせて笑っている。
恍惚と歓喜の入り混じった表情で、女が殺されるさまを凝視している。
僕は大きな勘違いをしていたようだ。
彼女はお笑いが好きだったのではない。誰かが苦痛や恐怖に悶える様を見るのが好きだったのだ。と。
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「すいません、この近くでこんな猫を見ませんでしたか?」
生ゴミをダストボックスに出して蓋を閉じたところで、僕は一人の少女に声をかけられた。
手渡された用紙には愛らしい黒猫の写真がプリントされていて、
「迷い猫探しています。マコ、2歳」
と大きく書かれている。脇には小さく少女の家の連絡先であろう電話番号が記載されていた。
僕は膝を折って少女の目の高さまで体を落とすと「ごめんね」
と謝った。
少女はキョトンと僕の顔を数秒見つめた後、見かけたら連絡お願いします。
と僕に軽く頭を下げると踵を返して行ってしまった。
ごめんね。マコちゃんはどこを探しても見つからないし、もう絶対に帰っては来ないんだよ。
ダストボックスに目をやる。昨夜の生々しい感触がまだ手に残っている。
良心がずきりと痛む。
ごめんね。彼女を笑顔にする為なんだ。
彼女の笑顔を、僕はもっと見たいんだ。
彼女をもっと喜ばせたい。
そんなことを考えながら、
僕は駆けていく小さな背中をジッと見つめていた。
END